Blood×Alice (Alice in Heart)


 二人は先日華燭の典を挙げたばかりの新婚さん。
 夫は愛する妻を養うために外で仕事に精を出し、妻は夫の帰りを待ちながら部屋でちくちく針仕事。

 本来であれば、そのシチュエーションは――たとえ夫の職業がマフィアの御大で、その御大が直々に出向かねばならないほどの仕事がどんなものだとしても――それなりにあたたかく、それなりに微笑ましい光景に見えるはずだった。
 けれど今、当の夫の目には、その光景がやけに薄ら寒く映っている。
 実際に、薄ら寒い。自室に足を踏み入れた瞬間に体感温度が数度下がったような気がしたのは、気のせいでも、ましてや空調のせいでもないだろうと夫は思った。
 そして、並外れた勘の良さを誇る男は瞬時に確信する――ブラッド鍾愛の妻であるアリスのご機嫌が、いまひとつどころでなく、よろしくなさそうだということを。


「……今帰ったよ、奥さん」
「おかえりなさい、ブラッド」

 ブラッドの予想に反して、アリスの声音は穏やかだった。
 別段愛想がいいわけではないが、別段無愛想でもなく。
 つまりは普段どおりのアリスの態度で、むしろ皮肉が標準装備になっている口から「言われなくても、今帰ってきたのは見れば分かるわ」程度の言葉が吐き出されなかった分、機嫌が良いのかと思えるほどだ。
 アリスの視線がただの一度もブラッドに注がれることなく、終始、縫い針を動かしている手元に注がれたままだという事実さえなければ、さしものブラッド=デュプレも今回はアリスの機嫌を読み違えてしまったかと思い直していたかもしれない。
 アリスは、夫妻にとって思い出深いソファで黙々と裁縫を続けている。
 アリスの礼儀正しさは折り紙つきだ。いくら作業に熱中しているにしても、人と挨拶を交わすときに手を止めず、目もあわせないなど、アリスに何か含むところでもない限り、ありえない。
 あからさまに不機嫌オーラを撒き散らさず、一見穏やかに見える分、かえって根が深そうに見える。
 アリスは無関係の人間に八つ当たりするタイプではないから、原因はおそらく自分にあるのだろうと見当がつくものの、常に普段通り振舞っているブラッドには、これといって思い当たる事情はない。
 当然、原因は気になる。
 だが今は。

「なあ、アリス」
「何かしら」

 それ以上に、この部屋に戻ってきてからずっと気になっていたものの内の一つを、ブラッドは指差した。

「それは何かな?」

 この屋敷の住人に限らず、この国の住人の多くが日常的に携帯している「それ」は異様なものではなく、むしろごくありふれたものだが、それがアリスの腰にぶら下がっているとおかしなほど異様に見える。
 フリルつきのエプロンドレスと「それ」が明らかにミスマッチだということもあるが、それ以上に「それ」に対する嫌悪感を隠そうともしないアリスがそれを携帯しているということが奇異だった。

「見て分からない? 銃よ。エスなんとか……、ううん、エムなんとかだったかしら。名称は忘れちゃった」
「M1911。45口径の軍用拳銃だ。重量があるから女性の手には余る。君が持つのなら……そうだな、バランス性を重視してルガーのKP90くらいが無難なところか」
「せっかくだけど、銃を持つつもりなんてないから。て言うか、名称を知ってるなら最初から聞かないでくれない?」
「いや、聞きたかったのは名称じゃなくて、どうして君が銃を携帯しているかということなんだが……」

 アリスは博識で頭の良い女だが、銃に関しては知識が皆無な上、知識を増やそうという気がさらさらない。

 ――自分には銃など不要。

 たとえ元の平和な世界を捨て、命の価値があまりに軽いこの世界に染まりゆかねばらならなくても、これまで培ってきた最低限の道徳観や倫理観だけは守り抜くのだという、それはアリスにとって己に課した絶対のルールであり、狂った世界に対するささやかな抵抗であり、断固とした意志表示でもある。
 護身用だとしても全くの素人に銃を持たせるのは逆に危険だし、アリスの意志を尊重したいこともあり。もとよりアリスを危険から守り抜く自信を備えているブラッドは、結婚前も結婚後もアリスに銃を所持することを強要したことはない。
 帽子屋屋敷においてアリス=デュプレに何かを強いることの出来る者はブラッド以外にいるはずがなく、ということはアリスは今、自主的に銃を携帯しているということになるが……それはアリスをよく知る者にとっては青天の霹靂としか言いようがない。

「これ、ボリスからの結婚祝いなのよ。私には正直、小汚いだけの銃にしか見えないけど、マニアが太鼓判を押すほどの高性能の優れものなんですって」

 本当は手放すのが惜しいくらいの逸品なんだ、だけどあんただから涙を呑んでプレゼントするんだ、だから目一杯感激して大切に使ってくれよな、と切々と訴えてきたボリスに気圧されて、実弾を抜いた状態であれば、しばらくの間、銃を持ち歩いてもいいと思った……というより、そうせざるを得ない雰囲気だったのだとアリスは言う。
 贈った側はアリスに銃を実用してもらいたいのだろうが、今の状態はさしずめ見た目が少しばかり物騒なアクセサリーといったところか。
 アリスにしてみれば、本当はアクセサリー扱いでも銃を持ち歩くのは嫌だろうに。善意の贈り物を無碍に出来ないのは性分なのだろう。

「あのおチビさんは、君が銃に拒絶反応があることを知らないのか?」
「知ってるわよ。でも、ディーとダムが結婚祝いにこれをくれたから、その流れで」

 アリスはようやく手を止めて、糸を噛み切り、縫い針を針山に戻した。そして、ディーとダムからの結婚祝いだという品をずいっとブラッドの眼前に突きつけた。
 それは、銃ともう一つ、ブラッドが尋ねたいと思いながらもどうにも尋ねにくかったものだ。
 ブラッドの目の前には、幼児と同じくらいの大きさの人形が。
 はちきれんばかりに綿が詰まっている三頭身のふくよかボディに、モップを思わせる極太の毛髪。まん丸な顔の中に大きな目玉と口だけという単純なパーツで出来ているご面相は、愛嬌があるといえば聴こえはいいものの、造作自体は不細工としか言いようがない。
 可愛いものに目がない姉とは違ってブラッドは人形にこれっぽっちも興味がないが、目の前にある間抜け面には見覚えがあった。双子の門番がよく風呂に持ち込んで遊んでいるそれの名前を知っているし、用途が愛玩用でないことも知っている。
 ……知ってはいるが、問わずにはいられない。

「…………これは何かと聞いてもいいかな」
「何って、知ってるでしょう? 『八つ当たり君』よ。この子が何代目なのかは知らないけどね」
「いや……。だから、これも聞きたいのは名称のことではなくて」
「ムカつくことがあったら、斬ったり千切ったり切り刻んだり撃ったりするといいんですって。せっかくだけど武器を持ってないから遠慮しとくわって言ったんだけど、それなら俺が銃をあげるよってボリスが」
「八つ当たり君と銃が、それぞれ門番とおチビさんからの結婚祝いだということは分かった。私が聞きたいのは、その八つ当たり君が何故そんな風体をしているのかということなんだがね、奥さん」

 ブラッドの記憶にある八つ当たり君とは違い、今目の前にある八つ当たり君は、凝りに凝った衣装を着せられている。ついさっきまでアリスが熱中していて作っていたのが、それだ。
 アリスに裁縫の趣味があると聞いたことはないが、アリスとて女の子なのだから、人形に衣装を作って着せること自体はおかしくないのかもしれない。だが、その人形は明らかにおかしなことになっていた。
 トランプマーク入りの、乗馬服と礼装をごちゃまぜにしたような白い上着。
 中途半端な丈のそれを手袋と同じ色のシャツの上に羽織った八つ当たり君の首には、大きめの黒いスカーフが緩く巻かれ。
 ぷくぷくとした短い手には、薄桃色の手袋がはめられ。
 その手の中には、天辺に帽子の飾りがついたステッキが握らされ。
 黒いズボンをはいた、やはりぷくぷくとした短い両足には、白のロングブーツが履かされ。
 本来の緑色から夜の闇のごとき漆黒に染め変えられた髪は、肩のラインで不揃いにカットされ。
 その頭の上には、羽飾りとプライスカードと赤い薔薇をあしらった、黒い帽子が被せられていた。
 まるで奇術師を思わせる風体には、嫌というほどに見覚えがある。
 小道具のステッキ、スカーフの模様、帽子に飾られた薔薇の数、配置、プライスカードに書かれた文字に至るまで何もかもが忠実に再現されていて、見れば見るほどに見事としか言いようのない出来栄えだ。並大抵のこだわりではない。
 八つ当たり君が纏っているのがこの衣装でさえなければ、モデルにされているのがブラッドが想像する人物でさえなければ、ブラッドもアリスの仕事を素直に賞賛していただろう。
 ブラッドは、八つ当たり君の用途を知っている。そして、アリスが人形を愛でたり抱きしめて眠ったりする女でないことも知っている。
 頬が引き攣りそうになるのを辛うじて堪えているブラッドにとどめを刺すかのように、アリスがにっこりと微笑んだ。それはもう満足そうに、とびきりの笑顔で。

「だって、何の罪もない人形を斬ったり千切ったり切り刻んだり撃ったりなんて、そんな可哀想なこと、私にはできないもの。でもこれなら、殴ったり蹴ったりヒールで踏んだりしても心が痛まないんじゃないかと思って」
「………………」

 私って、面倒くさがりなくせに凝り性の気があるのよね。
 どうせやるなら徹底的にオリジナルに似せたかったから、スカーフやプライスカードはもちろん、使った生地も全部オリジナル御用達の仕立て屋さんから取り寄せたの。
 薔薇も、ちゃんと薔薇園で摘んできたのよ?
 製作にあたって一番苦労したのは、やっぱり帽子かしら。へんてこなくせに、意外と凝った作りをしているから……云々。
 あまりに馴染み深い装いをした人形をただ凝視し続けるしかないブラッドを尻目に、アリスは一人ご機嫌で囀り続ける。

「もっとも、オリジナルよりこの子のほうが数段男前になっちゃったのだけは、失敗といえば失敗なんだけどね……」

 アリスが心底無念そうに溜息をつく。
 八つ当たり君は格好こそ奇抜に装われているが、顔の造作そのものには手が加えられていない。つまり、どこからどう見ても、元の間抜け面のままだ。
 そのくせ、よく見れば、白色だったはずの瞳がさりげなく緑色に塗り替えられているところが小憎らしい。

「アリス」
「なあに?」
「…………私が君を怒らせる何をしたのか、頼むから教えてくれないか」

 ストレートに責められるより、こういう遠まわしかつ中途半端な嫌がらせのほうがよほど気持ちが悪い。真綿で首を絞められているかのような不快感は、腹立たしさを感じるより落ち着かないという気持ちに近い。
 溢れんばかりの殺気を向けられ、銃を額に押し付けられたとしても、ここまでの気分は味わえないだろうとブラッドは思う。

「別に怒ってないけど? あなただって、そんなことを聞いてくるくらいだから、思い当たることはないんでしょう?」

 ブラッド=デュプレとお揃いの衣装を着た八つ当たり君の頬を軽く抓り、にこやかに微笑むアリスにますます薄ら寒いものを感じながら、ブラッドは敵対勢力からも明晰だと認められているその頭脳をフル回転させ、必死に記憶を辿る。
 思い当たることといえば、強いて挙げるなら、ブラッドが外出する前の時間帯に、読書中だったアリスから本を取り上げてベッドに拘束したくらいだが、それは二人にとってはありふれた日常だ。
 たしかに、読書を邪魔されたアリスはいつも最初は嫌そうな顔をするが、それもベッドでアリスの理性が保たれている僅かな時間だけのことで、その後は、ブラッドが起こす甘い波に飲み込まれ、全てはそこで終わる。
 これも、いつものことで、今更その程度のことでアリスが怒るとはブラッドには思えない。

 だが今回に限っては致命的なミスを犯していたことに、ブラッドは気づいていない。
 たとえ読書の邪魔をされることに慣れっこでも、大切な本を取り上げられた上、それを無造作にソファの上に放り投げられて寛容でいられるほど、アリスは成熟していない。
 あの本は、ブラッドがアリスのために入手してくれた貴重な本だったのに。それも、いつものように人を使ったのではなくて、ブラッド自らが出向き、手を尽くして手に入れてくれたという意味でも貴重で希少な本――アリスにとっては他のどんな価値ある本よりも価値のある、大事な大事な宝物だったのに。
 苦心して手に入れたはずの本すらどうでもよくなるくらいアリスを構いたかったというのがブラッドの男心なら、いかなブラッドが本を手に入れてくれた張本人であっても、いや、だからこそ、それを粗末に扱われるのは絶対に許せないというのがアリスの女心だ。
 だけど。

「君らしくもない。何を怒っているのか、はっきり言いなさい!」
「だから、怒ってないって言ってるでしょ!」
「その態度のどこが怒っていないと言うんだ!」
「ブラッドが怒鳴るからよ!」
「だからそれは君が……!」

 ブラッドにどんなに追求されたとしても、アリスはたとえ口が裂けてもこんな乙女的に恥ずかしいことを言えるはずがない。
 怒っている理由を口に出来ないから余計に苛立ちが増すが、どんなにムカついたところで本物のブラッドを斬ったり千切ったり切り刻んだり撃ったりは出来ない。そのくらいにはブラッドを愛しているアリスに残されている憂さ晴らしと言えば、せめて八つ当たり君を使ってブラッドにささやかな嫌がらせをするくらいしかない。


 男心が分からない女と女心が分からない男が分かり合うことは、あるいは――。
 決着する見込みがつきそうにないと言われているこの世界の不毛な勢力争いに終止符を打つことより難しいかもしれない。





Happy wedding,Alice!

〜双子+ボリス編〜
(2008/02/26)





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