Alice+Elliot (Alice in Heart)


 時間が狂っているこの世界のこと。アリスが帽子屋屋敷に住み着いてからの正確な時間は分からなくても、短いとは決して言えないだけの時が経過していることは確かだ。つまり、アリスはそれだけの長さの時間を帽子屋ファミリーの面々と過ごしてきたということになる。
 ハートの城で舞踏会が開催される頃には、屋敷に住まう者の多くが自分たちの主と客人の少女がどのような関係にあるのか薄々にも気づいており、その二人が今更結婚したからといって彼らにとって特に何が変わるというわけではなかった。「客人」から「主の妻」という肩書きに変わらずとも、彼らにとってその少女は最初から利害抜きに好ましい存在だったからだ。
 ブラッドもアリスを妻にしたからといってアリスにマフィアとしての生き方を強いることはないし、アリスもマフィアのボスの妻になったからといって自分がマフィアになるつもりはない。
 つまり、帽子屋ファミリーという家族を持つことになっても、あくまでもアリス自身は堅気のまま。アリスの意識と生活は、結婚する前と後で特に変わりもなく、アリスを取り巻く状況が激変することはなかった。
 ――たった一点を除いては。



■□■



「エリオット!」

 明らかな怒気を孕んだ声で名を呼ばれた男は、長い廊下で立ち止まり、振り返る。
 自分の名を呼んだ少女――アリスの目を見た瞬間、エリオットは思わず数歩後ずさった。同時に、本能的な危険を察知したかのようにウサギ耳がへにょっと縮こまるが、いつもならアリスの目に可愛らしく映るそのウサギさんぶりも、今のアリスの怒りを溶かすほどの効果はなかったらしい。
 アリスの目には、ふつふつと燃え滾るような怒りが宿っている。泣く子も黙る帽子屋ファミリーのナンバー2を青ざめさせるほどに、その視線は恐ろしいものだった。

「な、なんだよ……。何怒ってんだよ、姐さん」

 ぴくり、とアリスの眉が震える。
 俺、何かしたか? とびくびくしながら問いかけてくるエリオットに、アリスの目がいっそうきつく吊り上がり、エリオットはますます縮こまるばかりだ。

「いい加減にしなさいよ、エリオット……」
「だから何怒ってんだってば、姐さん!」
「その『姐さん』をよせと言ってるのよ!!」

 振ってしまったせいで蓋を開けた途端に勢いよく溢れ出した炭酸水のように、アリスの激情は止まらなかった。もう、我慢の限界だった。


 アリスがブラッドと結婚して以来、明確に変わってしまったことが一つだけある。アリスに対する屋敷の使用人たちの呼び方だ。つまり、客人だった頃の『お嬢様』が、屋敷の主の妻となって『奥様』へと変化したことである。
 自分のような年齢で奥様呼ばわりされるのは似合わない上に気恥ずかしい気はしたものの、屋敷に勤める者としてのけじめだと言われてしまうとアリスも納得するしかない。最近になって、やはり面映いながらもようやくその呼び方に慣れ始めてきたところだった。
 しかし、その矢先……ほんの数日前のことだ。またしてもアリスの呼び方が突然変わったのだ。『お嬢様』に戻るでもなく、あろうことか、よりにもよって、エリオットが今アリスを呼んだとおりの『姐さん』へと。

 『姐さん』
 やくざ者が、その親分や兄貴分の妻や情婦を、あるいは女親分を指して呼ぶ呼称だから、 使われ方としては間違ってはいない。しかし、実質の立場がその通りであっても、アリスにとってその響きは、どうしようもなく耐え難いものなのだから仕方がない。心の底から御免こうむりたいと思う気持ちは、理屈ではないのだ。
 当然アリスは『姐さん』だけはやめてくれと必死に訴えたのだが、使用人たちは「そうおっしゃられましても、上からの指示ですから〜」とだるそうに返すだけで、呼び方を改めてはくれない。
 『奥様』以上にアリスに似合わないこの呼び方を最初に(しかも強硬に)提唱したのはエリオットであり、これはきっとエリオットが扇動したことに違いないと見当がついたものの、肝心のエリオットは仕事で数日間屋敷を空けており、文句のつけようがない。
 それならばと屋敷の最高権力者であるブラッドに妙な呼び方をやめさせてくれるよう訴えてみても、ブラッドはいいじゃないかと言うだけで真剣に取り合ってはくれず、むしろアリスが困っているのを面白がっているのが見え見えで、アリスをよけいに苛立たせただけだった。
 ここの男たちときたら――! と、アリスが歯噛みしたのは言うまでもない。
 辛うじて女性陣、つまりメイドたちだけは『姐さん』ではなく『奥様』と呼び続けてくれたのが、せめてもの救いだった。やはり女性は女性の繊細な心を解してくれるものなのだろう。
 アリスは『姐さん』と呼ばれたら絶対に返事をしないという対抗策をとり、その許し難い呼称が定着するのを防ぐことに努めた。上司の命令に従っているだけの使用人たちを無視するのは正直なところ心苦しかったし不便なこともあるのだが、用事はメイドたちと意思疎通が図れれば大体は事足りる。全ては、この徹底した姿勢を貫いてエリオットが姐さん呼ばわりを諦めてくれるまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、アリスは心を鬼にした。
 けれど、街中の衆人環視の中で、たまたま出くわした屋敷の使用人たちから大声で『姐さん』と挨拶された日には、さすがのアリスも卒倒しそうになった。
 つい先ほどのことだ。アリスの意識が一瞬遠のき、眩暈がしたのは、誇張表現ではない。
 帽子屋屋敷の使用人は、派手な仕事着からすぐにそれと見て取れる。
 マフィアの構成員たちから『姐さん』と呼ばれる女。それが街の人々からどう思われるのかは推して量るべきだ。
 この先ずっとこの世界で生きていくことになって早々、外を出歩けなくなるなんて冗談ではない。アリスは多くを望んでいるわけではない。ただ穏やかに慎ましく生きたいだけだ。

 ――それを邪魔しているのはエリオット。
 許すまじ。

 憤懣やるかたない思いで帰宅したアリスに絶妙なタイミングでエリオット帰還の報が届けられ―――そしてアリスがエリオットを捕まえて、今現在に至る。


「エリオット、私、結婚式の後に言ったわよね、姐さんなんて呼び方は嫌だって。今すぐ使用人たちにあの呼び方をやめるように言ってちょうだい。さもないと、あんたとは金輪際口をきかないわよ!」

 もしもアリスが真の意味で『姐さん』になっていたら、3秒と待たずにエリオットを撃ち殺していただろう。アリスの怒りはそれほどだった。

「そんなこと言っても、あんたはうちの組織の女ボスになったんだから仕方ないだろ」
「私は、マフィアのボスの妻になっても、組織のボスになったわけじゃないわ。ブラッドだって、私に組織に染まれなんて言わないもの」

 アリスは憤然として言い切った。エリオットを黙らせるにはブラッドの名前を出せば一発だと踏んだのだが――予想に反して、エリオットは黙るどころかにやりと笑い、あまつさえアリスを見下ろすように身を乗り出してきたのだから、今度は思いがけずアリスがひるまされる番だった。

「なーに言ってんだよ」
「な、なによ……」

 普段はアリスにはどこまでも甘い男だが、エリオットはやはりマフィアのナンバー2なだけあって、凄むとさすがの迫力がある。先ほどまでアリスに押され気味だったウサギの姿は、今はどこにもない。
 アリスは負けじとエリオットを睨み上げるが、その視線にどれほどの強さが篭められているか、アリス自身、自信がない。萎縮してしまった体は正直だ。

「そのブラッドが、姐さん呼びを許可してくれたんだぜ?」
「…………。 何? ……なんですって?」

 もう一回言ってくれないかしら。
 いつになく低い声で呟いたアリスの心情などに気づきもせず、エリオットは途端に相好を崩した。きらきらと目が輝き出したのは、敬愛してやまないブラッドとのそのやり取りを思い出しているせいなのだろうか。

「だーから! ブラッドが賛成してくれたんだって!」

 胸を張って答えたエリオットは、ブラッドが自分に賛同してくれたことがよほど嬉しいらしく、ほくほく顔を崩さない。

「ブラッドが賛成してくれたからには、あんたにはこれから本格的に姐さん修行をしてもらわないとな。俺に教えられることなら何でも教えてやるから、遠慮なく聞いてくれよな!」
「ブラッドが……?」

 ――何故。
 アリスは首を傾げる。『姐さん修行』云々は耳を素通りだ。
 ブラッドは、アリスがそう望んでいるならともかく、アリスを組織に染めたいわけではないはずだ。アリスを染めたいと本気で思っているのなら、ブラッドならば、こんなまどろっこしい方法は取らず、アリスの否やなど聞く耳も持たず、とうにアリスを姐さんとして祭り上げているはず。
 ブラッドはアリスが姐さんと呼ばれるのを嫌がっている様子を楽しんでいたようだから、気まぐれに悪戯気分でエリオットに加担しているということなのだろうか。

「ボスって意外とやきもちやきなんだよ、お姉さん」
「ボスって意外と子供なんだよ、お姉さん」

 背後から唐突に、エコーがかかって聴こえそうな声をかけられ、アリスとエリオットは振り返る。

「『お姉さん』じゃ駄目だよ、兄弟。どんなにお姉さんには似合わないと思っても、『姐さん』って呼ばなきゃ減給されちゃうかもしれないだろ」
「そういう兄弟だって『お姉さん』って呼んでるじゃないか。でもそうだね、兄弟。どんなにお姉さんには似合わないと思っても、雇い主の命令は絶対だもんね」
「でも兄弟、僕は『姐さん』は嫌なんだ」
「同感だ兄弟、僕も『姐さん』は嫌なんだ」

「ディー、ダム」
「なんだてめえら、またさぼりやがって」

 アリスとエリオットの声が重なる。いつの間にやって来たのか、物騒な斧を手にした双子の門番たちが二人の前に立っていた。

「さぼりじゃないよ、ひよこウサギ。屋敷の中で誰かが揉めている気配がしたから、屋敷を守る門番として駆けつけてきたんじゃないか」
「そうだよ、馬鹿ウサギ。おまえがお姉さんをいじめてるのなら、この際ただ働きでも我慢して、今すぐ無料であの世に送ってやるよ」
「んだと!? このクソガキ、クソチビ!」
「誰がチビだって!? この××××ウサギ!」
「その耳、ちょん切ってやるよ! この××××ウサギ!」
「俺はウサギじゃねえ! この××××野郎!」
「……やめなさいって」

 放っておいたら今すぐにでも殺し合いを始めかねない双子とエリオットの間に入り、アリスは双子のほうに視線を定めた。
 この場合、ことブラッドに関することではエリオットと比較にならないくらい冷静な視点で物事を捉えられる双子からのほうが、より正確な情報が掴めると踏んでのことだ。
 そして、その読みは正しかった。

「ねえ、ブラッドがやきもちやきで子供って、どういうこと?」

 そんなことは双子に言われるまでもなくアリスは知っていたが、今この状況で、どうして双子の口からそのような発言が出てきたのかが気にかかる。

「お姉さん、結婚式の後に、ひよこウサギに何て言ったか憶えてる?」
「馬鹿ウサギが、『これから、あんたのこと、姐さんって呼ばなくちゃならないな』って言った後だよ」
「え? えーっと、あれは、たしか……」

 アリスは顎に手を当て、忘れたくても忘れられない結婚式の記憶を手繰り寄せる。中でもあれは、初めて『姐さん』という単語が飛び出してアリスを大いにくらくらさせた出来事だったので、必死に思い出そうとしなくても容易く思い出せるのが、ある意味有難く、ある意味腹立たしい。
 一言一句違わずに、自分がエリオットに吐き捨てた言葉が蘇る。

『姐さんなんて呼んだら、返事しないからね……』

 奇しくもそれは、アリスがすでに実践しているとおりの内容だ。つまり、アリスは現在進行形で『姐さん』と呼んだ使用人を無視し続けており、そしてたった今も、使用人たちにそれをやめさせなければエリオットとは口をきかないと改めて宣言したばかりだ。

「それが?」

 ブラッドとどんな関係があるのか。
 ますます眉を寄せて考え込むアリスに、双子は、まだ分からない? という目を向ける。

「この間、そこの馬鹿ウサギがボスに言ったんだよ、お姉さんに姐さん教育を施さないでいいのかって」
「そうそう。それで、その時の流れで、結婚式でのあのやり取りの話になったんだよ。つまり、『姐さん』と呼ばれたらお姉さんがどういう態度を取るかってことを、ボスが知ったわけ」

『ボスって意外とやきもちやきなんだよ、お姉さん』
『ボスって意外と子供なんだよ、お姉さん』

「…………」

 脳裏に再び双子の台詞がこだまし、アリスの頭にどうしようもなく最悪な推測が浮かぶと同時に、アリスの唇がひきつり、わなわなと拳が震え出す。
 認めたくはない。絶対に認めたくはないのだが、ただの推測ではなく、それこそが真実なのだろう。これだと、何故メイドたちだけがアリスを姐さんと呼ばなかったのかということも、合点がいく。
 アリスの発言が実践されることになったのは、「奇しくも」ではなく必然だったのだ。全ては、独占欲の塊のようなブラッドによって仕組まれた、あまりにも幼稚で、あまりにもくだらない企み事だったというだけの話――つまり、自分を姐さんと呼んだ相手とは口をきかないとアリスがいうのなら、ブラッド以外の男たちにアリスを姐さん呼ばわりさせればアリスはブラッド以外の男とは口をきかなくなるはずだという、ブラッドにとっては完璧な、そしてアリスにとっては馬鹿馬鹿しいことこの上ない企み。

「ボスはさ、お姉さんを独り占めしたいんだよ」
「でも僕たち、お姉さんに口をきいてもらえなくなるのは嫌なんだ」

 だからこっそり教えてあげたんだよ、と双子は悪戯っ子のように囁く。
 アリスは俯いたまま黙りこくり、エリオットだけが状況がいまいち飲み込めないといった顔をして、頭の上にハテナマークを飛ばし続けている。

「……エリオット」

 地の底から湧き上がってきたようなアリスの声に、アリスが何故こんなドス黒いオーラを滲ませているのか理由が分からないながらもエリオットの体がぴしりと固まる。
 ここで咄嗟に「なんだよ、姐さん」とは言わずに「なんだよ、アリス」と返せたのは、これまでの習慣がそうさせたというよりもエリオットの生存本能がそうさせたというべきなのかもしれない。

「自分に教えられることだったら何でも教えるから、遠慮なく聞けって言ってくれたわよね」
「え? あ、ああ、うん、言ったけど……」

 その声は、マフィアの幹部だと思えないほどに弱々しい。声だけでなく、その姿は、さながら蛇に睨まれたカエルのようだと双子は冷静にエリオットとアリスを眺めていた。
 アリスの迫力に完全に呑まれている哀れなウサギの前で、アリスは、にいっと、それこそマフィアの女ボスに相応しい邪悪な微笑みを浮かべ、言った。

「この世界での離婚の手続きは、どうすればいいのかしら?」

 これに答えれば組織のボスの逆鱗に触れることになり、これに答えなければ組織の女ボスの逆鱗に触れることになる。


 状況を把握しきれていないエリオットこそが、もしかしたら今回の一番の被害者だったのかもしれない。







Happy wedding,Alice!

〜エリオット編〜
(2007/06/17)





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